Mag-log in帰り道、弥生の手はずっと瑛介に握られていた。彼女の足取りはまだ少し頼りない。さっきまで二人の雰囲気は確かに甘く、しかも彼は妙なことまで言ってきた。だから弥生は、本当に何かが起こるのではと勘違いしたのだ。ところが実際には、額に軽く口づけただけで、そのまま手をつないで歩き出した。それは弥生の予想していた展開とはまったく違っていた。別に何を望んでいたわけではないが......今の胸の奥はどこか空っぽで、ぽっかりと穴が開いたようだった。弥生は胸に手を当て、自分でもおかしいと思った。「どうした?」瑛介の声が横から聞こえた。「胸が苦しいのか?」その言葉に弥生ははっとして我に返り、彼の心配そうな視線を避けながら小さな声で言った。「ううん、なんでもない」明らかに後ろめたい表情だったが、彼女が言いたくないのなら仕方がない。見たところ元気そうでもあったので、瑛介はそれ以上追及しなかった。戻ったのは、ちょうど八時ごろだった。祖父が二人を迎えに出てきた。「戻ったのか?どうだ、初めての田舎は慣れないだろう?」「いえ、田舎の空気はとてもいいです」「それは良かった」祖父はにこにこと笑った。「夜寝るときは、網戸をむやみに開けるなよ。蚊が入りやすいからな」「はい」「それから、和紀子が言っていたが、今夜はもう遅いから食事は明日に回そうってさ。夜に食べ過ぎると消化に悪くて眠りも浅くなるからな」その言葉に、弥生はちょっと驚き、同時にほっとした。「もう遅い。部屋を片付けて、早く休みなさい。明日は市がある、一緒に行こう」弥生も瑛介も頷いた。二人が部屋に入ると、弥生は思わず口にした。「やっぱり、早めに帰って正解だったわ」「そうだな」瑛介は、嬉しそうな彼女を見てたまらず、白い頬を軽くつまんだ。その感触に、胸が痛んだ。昔は柔らかくてふんわりしていたのに、今は肉がほとんどなく、細くなりすぎてしまっている。必ず、前みたいに健康な姿に戻してみせると瑛介は心の中で誓った。弥生は彼のそんな思いを知らず、ただつままれた頬を押し返しながら尋ねた。「ひなのと陽平は?今夜は一緒に寝ないの?」帰ってきたとき、二人の姿が見えなかったので、どこに行ったのか気になったのだ。「さっき聞いたが、今夜は母さんと寝
瑛介はわずかに眉をひそめた。「自分のことを心配しないのか?」その言葉を聞いた弥生は、深く考えることもなく即座に答えた。「そんなことより、私はあなたのほうが心配だよ」その言葉に、瑛介は動きを止めた。「......今、なんて言った?」「ごめんなさい」弥生は申し訳なさそうに彼を見つめた。「ここに来てから、あなたが怪我していることをすっかり忘れてたの」彼女はずっと子どものことばかり気にしていて、彼のことを完全に後回しにしてしまっていた。もし自分が彼の立場だったら、きっとつらいはずだ。弥生がそのことを理由に謝っていると知り、瑛介はどうしようもなくため息をついた。「それだけのこと?てっきり大事かと思ったよ」その言葉に、弥生の眉がきゅっと寄せられた。「こんなにひどい怪我をしていて、それが大事じゃないって?もうやめよう、戻ろうよ。薬も替えないといけないはずでしょ」そう言ってから弥生はふと聞いた。「そうだ、薬は持ってきてあるの?」彼女の瞳いっぱいに溢れんばかりの心配を見て、瑛介はこれ以上不安にさせまいと答えた。「持ってきたよ。スーツケースの中にある。あとで戻ったら自分で替えるから」「自分でできるの?」弥生はまだ納得せず、迫った。「今すぐ戻ろうよ。私が替えてあげるから」瑛介は唇を引き結び、黙り込んだ。弥生は彼の沈黙に気づき、顔を上げて見つめ返した。無言のまま困ったように見返す彼の目を見て、彼女は口を開いた。「いいでしょ。どうせあなたがそばにいるなら、私が嫌いなものが出ても全部あなたに食べてもらうから。それでいい?」それでも彼は黙ったままだった。弥生は仕方なく声を落とした。「......わかったよ。私だって本当は食べたいんだよ。こんなに痩せてるんだから、もっと食べないと。でも安心して。ちゃんと量は考えるから。食べられないときは無理しない」彼女は、瑛介が帰りたがらない理由が、彼女が親族の前で無理に食べさせられるのを嫌っているからだと分かっていた。案の定、彼女が言葉を重ねると、ようやく瑛介の気持ちが少し動いた。だが、まだその場に立ったままで、どこか不満そうだった。「どうしたの?ここまで言っても、まだダメ?」瑛介はふっと笑みを浮かべた。「いや。ただ......そういう言葉
やはり彼は自分のためにしてくれたのだ。「じゃあ、私の物分かり悪いってこと?」「違う」賢い瑛介はすぐさま否定した。「僕は君のためを思ってるし、君も僕のためを思ってくれてる。お互いに相手を思いやってるんだから、物分かり悪いなんて言えるはずがない。君だって、僕のことをそう思ったりはしないだろう?」弥生は首を横に振った。「そんなふうに思ったわけないじゃない。ただ、あなたがおばあちゃんたちに良くない印象を与えたり、気分を害させたりするんじゃないかって心配だったの。ご年配なんだから」「なるほど。確かに君の言うことも一理ある。次から気をつけるよ」瑛介が素直に非を認め、さらに彼女をなだめたので、弥生のわずかな不満もたちまち消えてしまった。「わかってくれればいいの」瑛介はくすっと笑い、彼女の手を取って歩き出した。「僕たち、こんなふうに散歩したことあったかな?」弥生の問いに、瑛介は少し考え込んだ。彼があまりに長く沈黙していたので、弥生は不安になって顔を向けた。「まさか、こんなに長く一緒にいて、一度も散歩したことがなかったの?」夫婦なら、散歩くらいは基本だと思っていたのに。「いや、あったよ」瑛介が突然答えた。「でもずっと昔だ。僕たちが子どものころだな」その頃の彼女はよく彼の後ろをついて回った。そう考えれば、あれも「散歩」だったのか。「子どもの頃?」弥生は過去の記憶を必要とはしていなかったが、彼が話す昔話に少し興味を引かれた。「そう」「私たち、子どもの頃にどんなことがあったの? 教えてくれる?」瑛介は彼女を見やって答えた。「もちろん」こうして二人は静かな田舎道を歩きながら、瑛介が昔の話を語り、弥生は隣で静かに耳を傾け、ときおり言葉を返した。どれほど時間がたっただろう。瑛介の足がふと止まった。弥生は彼を見て尋ねた。「どうしたの?」彼は少し沈黙したあとで言った。「いや、なんでもない」弥生はその声に抑え込んだような苦しさを感じ取った。最初は理由がわからず首をかしげたが、すぐに思い出した。そうだ、瑛介はまだ怪我をしていたのだ!弥生ははっとして足を止め、自分を責めた。なんて大事なことを忘れていたのだろう。彼はずっと自分のことを気にかけてくれ、食欲のなさにまで
和紀子はふと気づいた。自分の孫は本当は弥生を外食に連れて行きたいわけではなく、ただ二人きりで過ごしたいだけなのかもしれない。うっかり二人の時間を邪魔してしまったのかと考えると、彼女は気まずくなり、慌てて別の話題で取り繕った。「実はね、あの店に行ってほしくないのには理由があるのよ。あのじいさん、この前たまたま通りかかったときに見たんだけど、自分の孫のお尻を拭いてあげて、ちゃんと手も洗わずにまた料理を始めたの。こんな話、食卓ではあまりに食欲をなくすから言えなかったの。私は別に反対してるわけじゃない。ただ......散歩でもしてきたら?食べたいならおじいちゃんに作ってもらえばいいじゃない。散歩から戻ったら出来上がっているわよ」誰の耳にも、和紀子が先ほどの態度を取り繕い、場を和ませようとしているのがわかった。弥生も空気を読んで、その言葉に合わせた。「そうですね、おばあちゃんが教えてくれなかったら、あとでお腹を壊して大変なことになっていたかもしれません。助かりました」そう言って、弥生は卓の下で瑛介の袖を軽く引っ張った。すると瑛介はゆっくりと視線を上げ、頷いた。「うん、そうしよう」「じゃあ、少し散歩してくる。田舎の空気はきっと気持ちいいだろうし」二人が立ち上がると、ひなのもついて行きたそうにしたが、隣にいた和紀子が手を伸ばして引きとめた。「あなたたちはちょっとお手伝いしてちょうだい」二人の小さな子どもは目をぱちぱちさせたが、結局は素直に頷いた。ようやく弥生と瑛介は庭を出た。ほんの少しの間だったのに、外はもう暗くなっていて、道を歩けば家々の明かりがともっているのが見えた。弥生は少し気まずそうに瑛介に言った。「どういうつもり?」「え?」瑛介は平然とした顔で聞き返した。自分の態度に問題があるとは思っていないようだった。「態度が悪かったよ。おばあちゃんなんだから、無視してはダメでしょう」その言葉に、瑛介はふっと笑った。「でも君が代わりに言ってくれたじゃないか?」「私が言ったのは私の考えよ。あなたも表明すべきだったの」その瞬間、瑛介は歩みを止め、真剣な目で彼女を見下ろした。その視線に、弥生は思わず緊張した。「なに?」「気づいたんだけど、記憶をなくしてから妙に人を諭すようにな
弥生は本当に食欲がなかった。だがそれは料理が冷めたせいではなく、もともとあまり食べられない体質だからだった。さらに先ほどの食事で和紀子が彼女の椀にたくさん盛り付けた。その八割は瑛介が食べたとはいえ、弥生にとってあの量はあまりにも多かった。今はもう一口も入らなかった。彼女は口実を作って先に席を外そうかと迷った。皆の前で気分が悪くなって吐いてしまうよりは、「ダイエット中だから」と言った方がましだろうか......そのとき、まるで心を読んだかのように瑛介が突然彼女の手を握った。「弥生と一緒に村口でちょうどよさそうな小さな店を見かけてさ。だから夕飯は少なめにして、後でそこに寄ってみようって約束した」弥生は驚き、そんな方法を思いつくとはと感心した。「ああ、田中さんの店か?確かにいい店だ」「うん」瑛介は口元を緩めた。「ぜひ試してみたいね」すると和紀子が不満そうに言った。「わざわざ外で食べなくてもいいでしょう?」彼女にとっては、いくら味が良くても外は家ほど良くない。どんな人間が料理しているかわからないし、手を洗わずに食材を触っているかもしれない。食材も新鮮なものと傷んだものを混ぜて煮込んでいるかもしれない。皿に盛られたときには美味しそうでも、その過程は見えない。そんなものをどうして安心して口にできるだろう。だから若い頃、和紀子は恋人時代ですら外食を嫌った。当時、鎮雄はずいぶん困った。世間の若いカップルは外で食事や散歩をして仲を深めるのに、和紀子は何も食べようとしない。最初は、自分が嫌われているのかと誤解したほどだった。だが後になってわかった。彼女は鎮雄を嫌っていたのではなく、ただ潔癖症で外の食べ物を受けつけなかったのだ。それを知ってから、鎮雄は料理を習い、デートのときには手作りの菓子や飲み物を持って行ったり、自宅に招いて手料理をふるまったりした。だから今、和紀子が口を出したときも、鎮雄には彼女の気持ちがよくわかった。外の食べ物は不潔で、孫夫婦が体を壊さないか心配なのだ。夫として、彼は小声でなだめた。「まあまあ、若い二人は遊びに行きたいんだ。今までそんな機会もなかったんだから、いいじゃないか」しかし和紀子は納得しない。「機会がない?都会には店なんて山ほどあるじゃないの」弥
その可能性を思うと、瑛介は恐怖にとらわれ、背筋が凍りつく思いがした。弥生は彼の顔色が青ざめていくのを見て、彼が何を考えているのか察したように、改めて口を開いた。「あなたが考えていることはわかるわ。もう自分を責めないで。たとえ少し遅れて来たとしても、私は無事だったはずだから」彼は何も言わなかった。彼女の言葉を信じていないのが明らかだった。「本当よ。友作が助けてくれたの」そう口にすると、弥生は思わず微笑み、静かに続けた。「当時は何もかもが無意味に思えて、体も食事を受けつけなかった。そんなとき、友作が私に二人の子どものことを話してくれたの」その言葉に、瑛介の動きが止まった。まさか、また弥生の口から「友作」という名を聞くとは。前回は彼女を逃がすのを助けてくれ、そして今回は命を救ったというのか。友作が教えてくれたから、記憶を失っているはずなのに自分の名前や写真を探したり、子どものことを知っていたのだ。ようやく分かった。「じゃあ、僕のことも彼が話したのか?」「ええ。あなたの怪我や安全のことも、彼が確認してから私に教えてくれたの」そう考えると、友作という人物は、自分と弥生にとっての恩人だ。もし彼がいなかったら、きっと......「わかった。この件が終わったら、きちんと礼を言う」礼を言う?弥生は、友作はそういうことを望む人ではないように感じていた。それでもあれほど助けてもらったのだから、後日、改めて感謝を伝えるべきだと思った。「私が言いたいのは、彼が私を傷つけたわけじゃないってこと」「確かに、直接は傷つけていない」瑛介の瞳はなおも暗いままだった。「だが、君が受けた苦しみは、結局は彼が間接的に招いたものだ」そう口にしながら、瑛介はふと考え込んだ。「もちろん、僕の責任でもある」当時、情に流されすぎて、あれこれ気を回しすぎた。彼女のためにあの男への借りを返そうとしたのが間違いだった。もうこれで、その借りは帳消しにしてしまおう。弥生は何も言い返さなかった。「とにかく、もう真実は話した。あとはあなたがどう処理するかだよ」死の淵をさまよった弥生は、今ではすっかり悟ったような気持ちだった。やれることはやった。この先どうなろうとも仕方がない。命さえ落としかけ、あの二人